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できるところから一つずつ

できるところから一つずつ

1985年ー1990年

*1985年
 
---この年、初めて短歌を作った。---

第一歌集『極光』編集にあたっては、すべて気前よく捨ててしまった歌たちである。

この時期の作品には、母の読み口の影響が大きい。




*コスモス掲載歌(6月号以後)


娘が我にまつはりし頃なつかしみ雛をしまふ一人居の午後

我が知らぬ一日過ごして戻り来る子等それぞれに巣立ちの近く

心中とふ哀しき英語なきままに殺人自殺と事件は呼ばる

末の娘は春のスカート縫はむとて若草色の薄布拡ぐ

ゴルフボールさがしに入りし草むらに青き小さき卵がひとつ

暗雲に屆かむばかりのポプラの木大きく揺れて嵐に耐ふる

昼の間はひそやかにさく花水木夕暮れを待ち白く浮き出づ

ささやかな家庭菜園にかけし費用しばし考へ娯楽費と記す

みせかけの平和なりともありがたし我もふたつの祖国を持てば

病院のベッドに小さく臥す伯母は四十路の我を幼女とおもふ

母のみに心許すか病む父は今日の暑さを母に咎むる

音もなくけむりて降れる雨見つつ短き夏の去り行くを知る

とりたてて悩むべき事何も無し昨日の憂ひは妄想に似て

老猫はおのれ気ままに暮らすらし物憂げに居て媚びたりはせず

夜更けても巣の縁に立つ親燕漏るる光にぼんやりと映る

家離れ働き来し子十八の若者らしく無造作にゐる





*1986年

---二年目。コスモスだけでは物足りなくて、日本経済新聞の歌壇に投稿を始めた。---

この年に詠んだ歌の中からは、以下の2首だけを第一歌集に入れてある。

* 英語もて物思ふ時我が思考常より少し前に向かふらし

* 玻璃窓に映れる我は不機嫌に口を歪めて己を見返す




コスモス掲載歌

湯気のたつ蒸篭の蓋とり赤飯の出来うかがひつつ笑み抑さへ得ず

はばからぬ大蚊の交尾に若き娘が「大胆ね」と笑み眼をそらせたり

今日はふとオレンジ色など着てみたし雨の上がりて陽もさしたれば

三尺に満たぬ実生の桜木も葉の色を染む季迎ふれば

ワイパーの音がリズムに合はざればカーラジオ消し雨の音聴く

雪積みてそのまま凍てし白き道黒き犬行く用のあり気に

凍てつきしままに落つる葉カラカラと金属音を響かせて舞ふ

夜のうちに出しし厨芥コチコチに凍りてゴツンとトラックに載る

海一つ隔つるのみの母国とぞ思ひて来しがその海広し

霜も雪も霧氷もなくて東京に白く見ゆるはビルディングのみ

近寄るもはばかるまでに厳しかりし父なれど今平凡に老ゆ

白秋の住みしところと札の立つビルの狭間は笹揺るるのみ

故国への旅より戻り今朝一人風呂場洗ひて心さましぬ

目逸らさず顔を僅かにうつむけて笑みふくみ君は足速やに来る

七十を越す母なれど過ぎし日の教育ママぶり少し残せり

若き日の我言ひしまま吾娘の言ふ「お母さんには分からないのよ」

オートバイ欲しくも買へぬ吾子は先ずヘルメット買ひ机上に据ゑぬ

初めてのデートに行くとふ末の娘に兄等競ひて何か囁く

泡風呂に身を沈めつつ目を閉ぢて次々と泡の消ゆる音聞く

イースターに子の恋人のくれし百合少し下向きぽつと開きぬ

(添削を受けた結果、掲載は
 イースターに子がフレンドに貰ひし百合少し下向きぽつと開きぬ
 の形だったが、情況が変わってしまうので、あえて原作に戻してUP。
 選者の先生には申し訳ないのだけれども)


ピーマンとマッシュルームが嫌ひなど子のフレンドを少しづつ識る

白生地に墨を刷きたる風情なる服に出会ひてすぐ求めたり

ほほづきを中国提灯と呼び習ふ英語の語感肯ひて言ふ

窯元は金沢と言ふ抹茶碗掌に納まりてまろやかに馴染む

寝台の軽く揺るるに身を委ね夜汽車に眠る旅一日目

溢るるか溢れずに済むかと会ふ人毎川の話に始まり終る

英語もて物思ふ時我が思考常より少し前に向かふらし

暗緑の杉木立に降る白き雨今日も一日止む気配なし

久々に蝉の声聞く梅雨明けの岬に近き林の中ゆ

日本へ旅立つ我に夫は言ふ畳に寝転び蝉聞いて来よと

少年期のはにかむ笑みをそのままに父親となりし人に出会ひぬ



コスモス十五首詠

 真珠湾

戦争は止むにやまれずせしといふパールハーバーも広島もまた

リメンバー・パールハーバーの声上がる十二月八日は家より出でず

ホノルルの街に溢れゐし日本人アリゾナ記念館には一人も見掛けず

掲げられし写真の南雲中将は顔一杯にマジック塗らる

海軍の映画は死者の名を映す卑怯な奇襲を忘れてならじと

セピア色の画面一杯映りをりそのかみの我が父の如き兵

次々と爆発起こす軍艦の実写に館内どよめき止まず

飛行機の爆音が館内充たしをりパールハーバー奇襲の実写

真珠湾に日本が始めし戦ひを終らせてやつたとガイドは言ひ切る

アリゾナの記念碑に行く船の我の隣は空席のまま

死者の名を書き連らねたる慰霊碑に向ひつつ立ち只黙すのみ

真珠湾の翠の水に黝々と軍艦の沈める影が揺らげる

今もなほ湾に沈める軍艦の黝き影渡り細き魚泳ぐ

軍艦の煙突と言ふ円筒の錆びたるままに海面に出づ

宮先生が詠みまししまま「戦争は悪だ」と記帳し記念館出ず


編集室記
☆ 米海軍の古ぼけた映画に、作者はあのときの戦争は単純なヤンキー気質が叫んでいるような契機から起こったものではない、と感じたのか何うか。「戦争は」「ホノルルの」「今もなほ」等の歌にその疑問の片鱗が伺えるように思うが、とにかく、歳月が流れた。(伊藤)

☆ 戦争はともすると一方の側からしか語られない。日本におけると同様に、アメリカではアメリカの論理で語り継がれる。そんな怖さをよく捉えている一連。その間に立つ作者の気持は、「宮先生」の歌によく籠っている。(桑原)

☆ 佐藤紀子さんはカナダに在住する人。日本人の観光者のハワイ旅行とは全く別の、アメリカ人がアメリカの立場で発するリメンバー・パールハーバーの声のさ中で真珠湾を見て歌った珍しく特異な作。戦争は直接記憶しない世代だろうが、戦争に対する日本人の二重の苦々しさが滲んでいる。(葛原)




*日経歌壇掲載歌

選者は、コスモスの、(故)葛原繁先生

玻璃窓に映れる我は不機嫌に口を歪めて己を見返す
  選者評 思いがけぬ自分との出会いを歌った。
     何か理由があってガラス戸に映った自分の顔は不機嫌そのもの。
     「口を歪めて己を見返す」に不意をつかれたここ後が生きており、
     嫌な顔だと自分で自分を客観視出来た作。

 初めて投稿した歌だったので、選者評をいただいて、びっくりした一首。
 「玻璃窓」は、当時覚えたばかりの言葉。少々古い。
 第五句の「己」は、「我」を添削していただいた言葉。
 この形のままで、第一歌集『極光』にも入れた。



はじめての目がねをかけて踏み出せば床盛り上がり立ち竦(すく)みたり
 



*1987年

コスモス掲載歌

北斗星丸く残して天空を青白緑のオーロラが埋む

天頂に懸かるオーロラ薄るる時北に新たな翠の光幕

オーロラの拡ろがる空を見上げつつ吾娘は小声で「怖いわ」と言ふ

本二冊ブランデー一杯を枕辺に夫居ぬ夜は早々籠もる

花びらを茶色に変ふる初霜の訪ふ前にと薔薇切りて活く

宮先生逝きまししと聞き立ちたれど為す術はなし再び坐しぬ

異教徒と名乗る程には確固たる信念もなく樅の木を買ふ

売れ残りし樅の木をまた積み込みてトラックは去るイヴの広場を

家ぬちに丸干の煙籠れるを日本の香りと夫は諾う

「私は日本人でありたい」と吾娘は日本の大学志望す

公民館にエアロビクスのポスターと離婚講座のお知らせが並ぶ

又一つ別れ重ねて空港のゲートに続く通路に佇ちぬ

はっきりと拒絶述べたり吾娘はもう日本人ではないかもしれぬ

雛人形飾れど桃は咲かざれば造花つくらむと本拡げみる

色赤きスポーツカーを借りたれば前の車をまた追ひ抜きぬ

抹消の打鍵に答へ記憶消すワープロの機能時に羨しむ

一斉に広場に降り来し百合鴎それぞれの向きに歩きはじめぬ

冴え渡る寒き夜なれば足踏みし望遠鏡見る順番を待つ

月に寄する抒情はレンズを通す時忽ち科学に取って替はらる

吸物に花びら三つ浮かばせて父母と今年の花見を果たす

数学を好める祖母と孫と寄り積分に面積を出すを競へり

鴎のみ群れゐし広場冬過ぎて子供等来たり球蹴り走る

今一度洗へばガーゼになりさうな気に入りのシャツ子は又着こむ

はじめての紫陽花の花開きし日軒の古巣に燕帰り来

はからずも昔の友を見つけたりバンクーバーのホテルのロビー

夫も子も留守なる今日の夕食に主婦休業しトーストを食む

先駆けて青く染まりし紫陽花の一毬が今朝紫を帯ぶ

ともすれば崩るる気持ちを励ますか母は常より早口となる

急逝の父の机上の万年筆キャップ外せし儘に置かるる

厚焼きの煎餅ほどの土塊をはねのけて竹が頭を出しぬ

白樺のか黝く立てる夜の影の肩に一際明き星見ゆ 



*1988年

コスモス掲載歌

子牛二頭追ひかけ合ひて戯るるを目の隅に見て母牛の佇つ

肩広きグレーのスーツに装へば吾娘は俄に大人さびたり

購ひて一年もせぬ黒服は既に五人の逝くを送りぬ

熱いタオル時に眼に当て立ち向かふ次々に来て積まるる書類に

我がすべき仕事にきりのつきたる日厨に立ちてきんぴらを煮る

一匹の蟹すら住まぬワイキキの砂はあくまでさらさらと白し

海水が紺から翠に変はる箇所一際高く白波の立つ

前を行くショートパンツの夫の脚細くなりしに気付けど黙す

チャイナタウンどの薬屋も店先に干椎茸を山と積み上ぐ

シャベルカー根元を掬ひ上げし時ポプラは倒れぬ地響きたてて

カナダに来て住まぬかと言へば母の眼に怒りに似たる翳の宿れり

死にに行くは未だ早しと気色ばむ我が住むカナダに母を誘へば

ポップコーンの香りの満つる館内にアイスホッケーの試合始まる

スロープにスキーヤー着地しパンといふ音する瞬間決まる優勝

わが前を音のみ残し滑り去り目にも止まらぬリュージュの選手

うるさくも心強しと老母は大通り沿ひに住むを決めます

東京に求めしスーツの山葵色くすみて暗しカナダの春に

親指を小さき口に入れしまま幼児眠るその母の背に

よく食べよ運動をせよ早く寝よと子は我に言ふ大人の顔して

足元を啄む駒鳥忽ちに長きみみずをくはへ首振る

客足の途切れし隙に店員は靴脱ぎそつと足さすりをり

店に出て働く時は一サイズ大きな靴を履くと友言ふ

梅雨前の葉桜の枝に季ならぬ鶯啼けり引越しの朝

四十年住みゐし家を引き払ふ老母の頬はほてりて紅し

荷の隙にやうやく坐り段ボールの上に拡げて弁当食ぶる

幼子の手より離れし風船は昇り昇りて点となりたり

帰省せる娘の同性の目がありて今日着る服を決めかねてをり

昼の暑さまだ冷めきらぬ家を出て夕べの風の中に逃れ来ぬ

十年かけ小さき苗より育てぬと老婦人言ふ合歓を仰ぎて

新しき分譲住宅の一軒に今宵初めて明かりともりぬ



*1989年

コスモス掲載歌


1月号

太古には海に沈みてありし山今聳え立ち地層を曝す

「ユーコ、トベ!」と怒鳴られて必死に跳んだのとクレバス超え来て優子は語る


2月号

鏡もて陛下の見ましし秋の月我も眺むるカナダの空に

「お一人のご旅行ですか」と日本人の店員は我をまじまじと見る

麻酔より我を覚まさむと呼ぶ声に日本語の返事をしたる気のする


3月号

三十一年隔てて逢ひし君とゐて何故か心に波立ちのなし

歌詠むは郷愁ならむと言はれしに戸惑ひて答えの言葉失ふ

君の乗る電車の去るを見送らず夜のホームをゆつくり歩む


4月号

謡曲の「鉢の木」の話聞かせつつ祖母は孫等と暖炉を囲む

シベリアゆ飛来せしとふ白き雁浜を覆ひぬ雪積めるごと


5月号

歌会より戻る途中のカーラジオに天皇崩御の速報を聞く

吹雪く日も料金の同じタクシーにチップを二ドル多く渡しぬ

親不知抜かれて来し子ゆつくりとひと匙づつの粥を啜れり


6月号

雪の上に足跡小さく残しつつ仔犬ラッキー走り抜け行く

雪だるま立ちゐし辺り芝の上に灰色の雪はつか残れり


7月号

明日はまた日本の下宿に戻る吾娘小声に歌ひて荷造りをなす

夜の雨窓打つを聴き目を閉ぢぬ今日も昨日に似たる一日


8月号 

水芭蕉の花

辛き過去持つ国なるに明るしとメキシコ市より友は書き来ぬ

「歯は人に生えてゐるのを忘れるな」歯科医は助手を窘めて言ふ

音高くパトカーが走り抜けし後街は一瞬空白となる

志ん生の落語のテープかけしまま夫はいつか眠りに落ちぬ

せせらぎが岩を洗ひて行く辺り水芭蕉の花ひそと群れ咲く


9月号

闇迫る桟橋の端にとまりゐて鴎はじつと沖に目をやる

読まむとし鞄に入れ来し本二冊開かぬうちに旅は終りぬ

ケアホームに入らむかといふ母よりの手紙がありてバッグ重たし


10月号

間仕切りの襖を大きく開け放ち清々と広し白秋生家は

十日間の旅より戻りし我を見て隣家の猫走り寄りて来

柳川の街に求めし藍染めのハンカチに今日の弁当包む


11月号

恋人の来る約束の日曜日長の子は家の前を掃きをり

裏庭に採れる苺になみなみとウオッカ注ぎて苺酒仕込む


12月号

月給の一年分を引き当てて遂にヨットを買ひぬ息子は

甲板を確と踏みしめ帆を張れり吾子は見知らぬ人の如くに

はためける帆布の向ふ一杯に青の色濃し真夏の空は




*1990年

この年も、コスモス掲載歌の他に、新聞・雑誌・歌会などへの投稿歌がかなりあるのだけれども、四散してしまった。

コスモス掲載歌

1月号

鮪船港に着くと聞きし朝馳せつけて列の最後に付きぬ

二度ばかり波間に顔を出しし後あざらしは深くもぐりたるらし


2月号

鶸の群ポプラの枝に降り立ちぬ残り少なき葉を揺らしつつ

「カムサムニダ」一つ覚えの韓国語キムチを賜びし金さんに言ふ

喉過ぎし後に辛さの未だ残るキムチに夫の食は進めり


3月号

死因には少しも触れぬ通知状ジムとキャロルが逝きしと伝ふ

水中の魚の動きを聴くといふ鷺は水際に佇ちつくしをり


4月号

座布団を筒型に巻き練習す吾娘に結ばむふくら雀を
今月の十首
   A お嬢さんの晴着姿を引き立てる「ふくら雀」結びはなかなか難しい。両羽の部門が肩のところにくる振袖用の帯結びを何度も練習している母親像が緊密なことば配りで表現されている。練習台が筒型に丸めた座布団である具体性によって共感が深められる。倒置法も効果をあげている。(吉田英子)
   B 二十歳の長女に着物を着せることになった。折角だから、帯は若々しく華やかに結びたい。結ぶ側の技量も考え、ふくら雀あたりが適当かと、座布団二枚を腰紐で縛って筒型を作り、早速に練習。娘に手をかけてやれることが段々に少なくなってきた母親としては、心楽しいひとときであった。(作者)
   C 「ふくら雀」は、ミスの盛装用の帯結び。そのような帯結びをする年頃は、もう母親から自立しはじめ、やがて伴侶を求めて巣立っていく。母と娘の絆がややに希薄になっていく年頃、本人一人で結ぶことのできない「ふくら雀」は母親の出番である。この作、上句は極めて無造作に事実を述べているが、その事実の中に、痛いほどの母ごころが伝わってくる。その点に注目した。(井口直子)

空中に突如とまりしチェアリフト吹き上ぐる風に揺れを増したり

常になく夫の手を借り締めし帯確と馴染みて背を支へをり

亡き父の書棚ゆ出しし歴史書の赤線引かれし箇所拾ひ読む


5月号

「おはやう」と道掃く人の言ひくれぬ日本に着きて初めての朝

「今日の雪本気で降つてゐますね」と電話の向ふに友の言ひます

しまく雪風に押されて流るるを街灯は丸く照らし出しをり


6月号

此処は地の果てには非ずスタートの地点と言へり極地の人は

吐く息の即座に凍り結晶になる音のする零下五十度

極地より戻り来りし我が目にはこまやかな雨樹々に優しも


7月号

思はずも歓声を上げ見守りぬ鯨現はれ海面跳べるを

一頭の鯨潜りて行きし後子連れの別の一頭が跳ぶ


8月号

オーロラの前兆なるか仄白く夜の空を刷く光一条

天空に大きく揺るるオーロラの白と翠に紅も混じり来

目に見えぬ波に流され靡くごとオーロラは大きく空を過れり


9月号

亡父がよく人と会ふのに利用せし茶房に今日は友を案内す

中央のやや窪み来し俎板に千六本を切り損ひぬ


10月号

見送りの乙女と軽く抱き合ひて子はカナダ式の別れ告げをり

Vサインと軽き笑みとを我に向け子は飛行場のゲートに向かふ

片道の航空切符を渡されて子は発ち行きぬ勤務の地へと


11月号

原爆の資料館出で歩みつつ言葉少なし友らも我も

言葉にはならぬ重さを引きずりて原爆資料館を後に歩めり

同行のカナダ人の友そつと聞く「広島の水はもう飲めるのか」


12月号

「もうこれでB29は来んずらか」終戦の日に人は言ひたり

音が出ぬと哭く児を宥めハモニカに溜まりし唾を拭ひてやりぬ

息詰めて口を尖らせ幼子はシャツのボタンを念入りに嵌む


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